昭和49年07月09日 朝の御理解
御理解 第96節
「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が立てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」
愈々大きな信心をさして貰い、愈々馬鹿と阿呆にならなければ出来る事ではありません。しかもその馬鹿と阿呆は、ただ辛抱しとけば良いと言った様なものではなくて、燃えるような信心が内容にあってからの事でなからなければならん。そこに神様が「成程神様じゃなあ。」と言うて下さる様なおかげにもなって来る。椛目の時代でしたけれども二、三人の若い人達が、あの時分は今の様に自動車も多くないですからね。
銘々に竹竿を担いでそして、椛目を通りかかって話して行っている事は、大きな声でね「ああ、ここが椛目の金光さんか」。何かそのうそれこそ何と申しますかね、何か低級視すると言うか、馬鹿にしたような話しをして善導寺の方から吉井の方へこちらへ来よった。そしたらね、一番最初に担いで来よったのがどうした調子か、前の原口さん所の店の屋根が低い屋根に、竿ばこうやって差し込んでしもうた。
それもんじゃから動きも取れんし、引っくり返ってから、後から来るとが次々薙ぎ倒しに倒れてから、もうおかしかごたる風で、キョロキョロと返った事が、何時かありましたがね。そういう例は、合楽には沢山ありますね。私の話を邪魔、もう明らかに邪魔するつもりで、やっておった人が、もう瞬く間に顔が腫れ上がったりした事があります。私は今朝から御夢を頂いたのに、私と直子が居りますそこへえらい頑丈な、大きな言うならば遊び手しかも殺し屋風の男がやって来て、初めはニヤニヤ笑っとりましたが、とにかく「インネン付けに来とるなあ」と私が思うたんです。
そして何かその直子が言ったことに癪に触ったと言わんばかりに、こうやって握り拳でベンプをはじこうとしましたけども、すかしましたからもうスレスレで、それを又叩こうとする。その時に私が御夢の中でね、金光様を唱えながら「ああこういう時に力が欲しいなあ」と思いました。私がもしその男よりも強い力を持っておったら、もうそれこそ取って押さえたに違いない。所が自分じゃとてもそういう殺し屋風の、しかも体格の頑丈な喧嘩腰の強そうな、その男にとても向かっても勝とうとは思えない。
だから金光様を唱えておるけれども、唱えながらね所謂、現に目の前で娘が苛められこなされておるのを見て「親である私が、手も出せないと言う事は残念だあ。これに力があったらなあ。」という御夢でした。それがどうしてもどう言う事か分からなかった。「直子に何か起こる様な事があるとじゃろか。なんかこんな様な事が起こるとじゃろうか」と思わせて頂いて、御祈念させて頂きましたらです。
言うなら「信心の力不足」と言う事でした。信心の力が例えばここではね、言うなら左巻きになる、馬鹿になるとも限度があると、そういう意味じゃないです。もう堪えられんと言う事ではない。けれども自分の身に降り懸かって来る火の粉は払わにゃいけんでしょうが。なら目の前で自分の子供が苛められておる、しかも理不尽に。それならば襟上をひっ掴まえておいてから、それこそギャフンと投げれる位な、力がなからなければいけないと言う事です。ね。
相手を怪我させるとか、殺すとか言った様な事じゃない。「ああ、ほんに合楽」、当時は椛目でしたから、「椛目の金光様ちゃ、悪口どん言いよるなら、ほんにえすかぞ」と言われる位にです、ビリビリ感じさせる位の力が要ると言う事です。昔月参りをさして頂いておる時分に、必ず汽車の中でいろんな問題が起こりましたですね。色々因縁をつける是はもう必ずでした。
やっぱりそういうやっぱり何ですかね、度々にめぐりのお取り払いを頂きよるとでしょうかね。「もう、今月だけは何も無かったの」と言うてから、帰りがけです。そげん言うて帰りに話しよりましたら、博多と久留米の間の鳥栖のあたりで、インネンつけられたことがある。それが最後でしたですね。皆さんもお参りになっとられる、ズーとお参りになっとった方は、それを体験しとられる訳です。何かインネンつけられて、何かガチャガチャ言わんならんことがある。
或る時文男さんの横に掛けた人と信心の話をしよったら、信心の悪口をえらい言う。それで討論になった。口論になった。だから、「あんたが、そげん言いなさるならね、あなたが腹でん痛うなんなさった時には、神様がおんなさる事が分かんなさるじゃろう」と言うてから話を切った。暫くした所がもう腹がせきだしなさったじゃろう、何べんも何べんも便所に行きよんなさる。それを見てから「腹がせきよんなさるですか」と聞きやせんじゃったけれども。
それは文男さんの話ですけれども。矢張りそれ位なね、言うならば殺すとか苛めるとかじゃなくてね。お気付けでも与えられる位な信心の言うなら力を頂きたい。念力を頂きたい。ここでもただ馬鹿になっておくと言う事、もうどげん言われても顔に関わるようなことを言われてもです、神様が顔を洗うてやると仰る、神様が顔を洗うて下さるための、私どもの力がいると言う事です。
ただ馬鹿になっておきゃ良かと言う事じゃ決してないです。ね。それは言うなら燃えておらなければいけんのです。そこでですそういう私は信心を身につけると言う事は、私は一番最高なのは祈念力だと思うですね。念力で。祈念の力です。念力で祈り殺すとか何とか、そう言う事じゃないです。けれど理不尽なことを言うておるのを取って押さえれるだけの力なんです。言うなら顔に関わる様な事を言いよったら、その場でおかげが頂けれると言う様なおかげです。力です。
守部の高山さんところに、創価学会の人達が十人位徒党を組んで、言わば祈伏というか勧めに来て上がり来んで、もう動かん。もうそして金光様の悪口を言うて、黙って聞きよったばってんから申しました。「合楽の親先生はね、もう決して他所の宗教の悪い事を言われる事はありません。あんた達の宗教もそげん力のある神様なら仏さまならば、あんたどんがそげん出て回らんでん、人はどがしこでんついて来るがの。
それこそ甘いもんのある所に蟻が集まって来るように、あんたどんがそげん喧嘩腰のごつしてから勧めん来にゃん所を見ると、大した力は無かつばいの」と言うたち(笑)「合楽辺の場合なんかは、もう合楽に行ったが最後皆んな助かる。だからあれだけの人があそこに集まる様になった。どこを悪口言うならそんな事言わんならんの」と、一番最後に言うた所が「もうこれでいかん」と思うて立ち上がった。
「そんなら高山さん、金光さんと創価学会がどれだけ違うか、今から力比べしよう」と言うてから(笑い)昔はガラス戸でしたからね、ガラス戸をガチャンと閉めた時に、手ば挟んでから、こうこうやってから帰ったち(笑い)それから翌くる日畑に行った。それが畑が上下じゃったそうです。そしたらそれこそ見られんごたる顔に腫れ上がっちゃったということです。それで畑に行ったけん、もうすぐツルツル帰らっしゃった。
勿論それきり来る事もなかったでしょうけれども、私はその位なね力を頂かないけんと思います。そういう神様の働きをここに現せるだけの力を頂かなきゃいかんと思うです。ね。もう聞いただけでも何か、溜飲が下がるおかげ思いがしますね。「そのうち金光さんと創価学会と力比べしよう」と喧嘩腰でバーッと帰った途端に手を挟んでから、こうこうやって帰りよる(笑い)。
翌くる日はどうですか、それこそ見られんごと顔が腫れ上がっとる。もうそれこそツルツル帰らっしゃったと言う事を、これはもう合楽に来てからでしたでしょうか知らん、そんな事が御座いました。ね。いわゆる合楽の、いわば力なんですそれは。だから合楽の力を現せる言うならば、力をまた頂かねばいけないと言う事です。今日私はこの九十六節とは、意味が反対の様な事だけれども、決して反対の事じゃないです。もうすぐそこに顔を洗うて下さる働きがはじまると言う事、すぐ。ね。
それは赤面弁慶になってどうこうじゃない、それこそ言うならば、日頃の祈りの力なんです。是はですねどんな不安心配があってもです、もう腹の底から大祓いを一生懸命上げて御祈念をした後には、何かスーッとするものを感ずる、体験はお持ちにならんでしょうか。合楽ではこの御祈念と言う事を疎かにしておる訳じゃないですけれども、皆があそこで御理解を頂いとりますから、私自身がもう声を出して。以前はそうじゃなかったです。もう、それこそ私の御祈念は割れんごたる御祈念だったです、昔は。
けれども最近は今言うように天津祝詞一つあげんでの御祈念ですけれども。ね。皆さん御祈念力を作らにゃいかんです。念力を稽古ですやはり。それにはね「高天原に」にどん言う位じゃでけんです。それこそ永瀬さんあたりのように腹の底からです、今の一時の御祈念に若い人達がやっておるように、本気で一生懸命に夏ならば、それこそ汗がだらだら流れるように、冬でも汗が出る位なです。
私は勢いの御祈念の稽古をなさらなきゃいけんです。皆さんお家で家族中で御祈念なさる時には先唱を一つ承ってご覧なさい。先唱をするととても御祈念が出来るようになる。皆さんどうでしょう、ね。御祈念の先唱をやられる。やっぱり稽古なんです。晩なんかは、「ほう、もう隣は御祈念が始まった」と、隣近所から分かる位の御祈念をせにゃいかんです。そうっと「高天原に」そげなことじゃ念力がつかんです。
神様はね「決して大きい声を出さんでも、人に物を言うように、静かに頼め拝め。」とも仰るです。けれども是は大きな声を出してはいけんと言う事じゃないです。大きな声で本気で、例えば永瀬さんあたりに「そろうっと上げなさい」と言われたら、もう御祈念したごとはあんなさらんじゃろうと思うです。男も女も眠気のつくごたる大祓いどん上げとるごたることじゃでけん。もう腹の底から例えばお謡いの稽古をする時のようにです、もう腹の底から発声法を稽古なさると良いです。
発声法、ね、中々難しいですやっぱり。だから皆さんがやっとる時、自分も一緒に一生懸命腹の底からですね、例えば大祓いの三巻も五巻も十巻もというて、どういう心配事のある時でも上げてごらんなさい。もう心配じゃないという心が生まれて来るです。その心がおかげを頂くのです。そして念力が段々ついて来るわけです。念ずる力が。ね。その力がです、立ち所に顔を洗うて頂けるような働きも頂けるわけです。神が顔を洗うてやると言う事、それは五年も十年も先に顔を洗うてやるという意味じゃないと。
私は思うです。それまで顔に関わるようなことを言うたら、もうその場でも顔を洗うて貰える位な、私はおかげを頂くために、合楽の力を発揮するために皆さんも力を受けなきゃいけない。私今朝の夢の中に現在頂いとる力では、まだ取って押さえる事は出来なかった。子供が苛められとるのにただ指をくわえて見とらんならん。そう言う様な事でなしにそれこそ襟上掴まえてひんなげる位なです、力があったらそこに本人を改めさせる。それがインネンをつけよるとがね。
言いよるとが「お前は人の」足を洗うと言いいますが、遊び人なら遊び人がまともな人間になるという時に足を洗うと言うその足ですが、「お前は人の足を洗うてやると言うが、俺の足を洗いきらんじゃないか」と言った様な事がインネンであった。だから本当に力を頂いてです、どういう人でも足を洗うてやる力というか、取って押さえて動かさん位な力を頂くために、念力というかねいわゆる御祈念力と言うものを。
本気でつけさせて貰う。今一時の御祈念の時に、皆さんがお参りになると、あのように一生懸命それこそ会堂が割れるような勢いで皆さんやっとります。ね。ですから若い人達についてです、皆さんも一生懸命に大祓いを上げて、家に帰って先唱も出来る位な。ね。そりゃ、仏教なんかでもお経を上げる時には、太鼓を叩いたり木魚を叩いたりしてするでしょうが一生懸命。だからもう一心不乱に例えば御祈念をすると言う様な事は、大変念力を造る為に力をつけるために、私は必要だと思いますね。
どうぞ。